若竹座

若竹座

 新門辰五郎の建設を起源とする玉川座はその後、小川鉄太郎に譲渡され小川座と改称された。静岡の小川座は甲府の三井座とともに東京役者の足止溜りとして有名だった。興行師にも顔の利いた太っ腹なのがいて信用が厚く、東京、大阪の大物役者や芸人が必ず立ち寄った。
 明治二十二年六月二十日付で小川座の経営者が小川金蔵から、同じ町内、寺町の材木小売商である高橋鉄太郎に移り、「若竹座」と改称された。
明治二十五年十二月十二日、若竹座の隣の妙音寺に放火されて若竹座も焼失。座主の高橋は再建を断念。興業権を持つ大塚正寿が親しい資産家、手塚忠兵衛に協力を頼み当時の財界人に声をかけて多額の再建資金を集めてくれた。
 再建された若竹座は従前よりも規模が大きく、袖入母屋作りの洒落た建物で、当時としては最高の材料と技術で立派に再建された。